おしんスッチー 私がCAを辞めた理由(1)それは突然に!
これから、数回にわたり、
私がCAを辞めた理由、その後のことを
書こうと思います。
なぜ辞めることになったのか・・・
それはこんな理由がありました。
━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─
私が入社した1990年は
まさにCA就職黄金期だった。
多くの場合、外資系航空会社は、
欠員が出た時に募集をかけるため、
いつ募集があるかわからない。
何年も募集しない場合もある。
それも欠員分の募集ゆえ、
採用される人数も少ない。
しかし、私が就活していたあの時代は、
毎週月曜日のジャパンタイムスには
外資系航空会社の募集がわんさか載っていた。

時はバブル!
今の中国人旅行客のように
日本人はこぞって海外に出かけて
現地で爆買いしていた時代よ〜。
そんな日本人旅行者のケアのため、
どのエアラインも日本人乗務員が必要で
大量に募集をかけていたわけなのね。
だから、こんな私でも
31人という大量採用にあやかり
CAになることができたのだ。
でも、そんな私たちは入社後、
怖い先輩に散々言わることになる。

ちょうど『新人類』という言葉も
流行ってて、何かにつけて怒られた。
さて、
そんな新人ドジでのろまな松本千秋も
なんとかしがみつきながら頑張って、
中堅と呼ばれるようになった頃。
バブルは終わりを告げた。
航空業界は競争激化、
低コスト化が進み始め、
JALが時給制客室乗務員制度を導入したのもこの頃。
その話は、他社とはいえ
私たちの間でも大いに話題になった。

ザワザワしたのは確かだったけど、
所詮、他社の問題だった。

ところが、1995年頃からか
成田空港で外資のCAがデモ?をする
光景を目にするようになった。

日本ベースの客室乗務員の賃金は
本国の乗務員より高い場合が多く、
日本人乗務員の賃金は低コスト化を
目指す航空会社はネックとなっていたのだ。
そんな同業者の姿を目にするたび

心から同情はしたけど、
それでも、やっぱりまだ他人事だった。

なんて呑気に構えていたのだった。
だって、まさかこの時、
その後、自分たちの身に同じことが
起こるなんて想像もしていなかったのだから!
あれは・・・
1996年のクリスマス間近だったか?
その日、ステイ先のホテルで、
同期皆で一緒にご飯を食べに行こうと
誰かの部屋に集まっていた時だった。

その時まで、私たちはいつものように
その日食べる夕飯のことしか考えていなかった。
しかし、部屋の電話が鳴ったその瞬間、
事態は急変した。

電話に出た同期の様子がおかしい!

何が起こったのか
まったく予想もつかない私たち。

しかし、電話を切った同期が
顔面蒼白になりながらこう叫んだのだ。

えぇ!!!!!!

まさか自分たちの身にこんなことが
降り掛かるなんて!!
入社7年目、
私20代の最後のクリスマス直前、
まさかこんな最悪なプレゼントが
用意されていたなんて!
目の前が真っ暗になった瞬間だった。
(2)につづく

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この間、久々に元CAの友達に会ったのですよ。彼女とは違う会社だったので、働いていた時の話とか今更ながらしたりして・・・。その時に、お互いなんで辞めたのかって話題になって、そう言えば辞めた理由なんて話してなかったよねと。そう思ったら、働いていた時の話はいやというほど書いてきたのに、なんで辞めたかって話は今までしてこなかったなと。ということで、ちょっと書いてみようと思いました。
私がCAを辞めた理由、その後のことを
書こうと思います。
なぜ辞めることになったのか・・・
それはこんな理由がありました。
━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─
私が入社した1990年は
まさにCA就職黄金期だった。
多くの場合、外資系航空会社は、
欠員が出た時に募集をかけるため、
いつ募集があるかわからない。
何年も募集しない場合もある。
それも欠員分の募集ゆえ、
採用される人数も少ない。
しかし、私が就活していたあの時代は、
毎週月曜日のジャパンタイムスには
外資系航空会社の募集がわんさか載っていた。

時はバブル!
今の中国人旅行客のように
日本人はこぞって海外に出かけて
現地で爆買いしていた時代よ〜。
そんな日本人旅行者のケアのため、
どのエアラインも日本人乗務員が必要で
大量に募集をかけていたわけなのね。
だから、こんな私でも
31人という大量採用にあやかり
CAになることができたのだ。
でも、そんな私たちは入社後、
怖い先輩に散々言わることになる。

ちょうど『新人類』という言葉も
流行ってて、何かにつけて怒られた。
さて、
そんな新人ドジでのろまな松本千秋も
なんとかしがみつきながら頑張って、
中堅と呼ばれるようになった頃。
バブルは終わりを告げた。
航空業界は競争激化、
低コスト化が進み始め、
JALが時給制客室乗務員制度を導入したのもこの頃。
その話は、他社とはいえ
私たちの間でも大いに話題になった。

ザワザワしたのは確かだったけど、
所詮、他社の問題だった。

ところが、1995年頃からか
成田空港で外資のCAがデモ?をする
光景を目にするようになった。

日本ベースの客室乗務員の賃金は
本国の乗務員より高い場合が多く、
日本人乗務員の賃金は低コスト化を
目指す航空会社はネックとなっていたのだ。
そんな同業者の姿を目にするたび

心から同情はしたけど、
それでも、やっぱりまだ他人事だった。

なんて呑気に構えていたのだった。
だって、まさかこの時、
その後、自分たちの身に同じことが
起こるなんて想像もしていなかったのだから!
あれは・・・
1996年のクリスマス間近だったか?
その日、ステイ先のホテルで、
同期皆で一緒にご飯を食べに行こうと
誰かの部屋に集まっていた時だった。

その時まで、私たちはいつものように
その日食べる夕飯のことしか考えていなかった。
しかし、部屋の電話が鳴ったその瞬間、
事態は急変した。

電話に出た同期の様子がおかしい!

何が起こったのか
まったく予想もつかない私たち。

しかし、電話を切った同期が
顔面蒼白になりながらこう叫んだのだ。

えぇ!!!!!!

まさか自分たちの身にこんなことが
降り掛かるなんて!!
入社7年目、
私20代の最後のクリスマス直前、
まさかこんな最悪なプレゼントが
用意されていたなんて!
目の前が真っ暗になった瞬間だった。
(2)につづく
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この間、久々に元CAの友達に会ったのですよ。彼女とは違う会社だったので、働いていた時の話とか今更ながらしたりして・・・。その時に、お互いなんで辞めたのかって話題になって、そう言えば辞めた理由なんて話してなかったよねと。そう思ったら、働いていた時の話はいやというほど書いてきたのに、なんで辞めたかって話は今までしてこなかったなと。ということで、ちょっと書いてみようと思いました。
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