台湾とユーミン
前にマリリンと台湾に来た時

『スラバヤ通りの妹へ』
♪妹みたいね 15のあなた
髪を束ね 前を歩いてく
かごの鳩や不思議な果物に
埋もれそうな朝の市場
痩せた年寄りは攻めるように
私と日本に目をそむける〜♪

そう言ってマリリンに笑われた。
言われてみれば、
台湾の人たちは日本に目を背けるどころか
向こうから温かく迎えてくれる。

いや、そうじゃない。
じゃ、なぜあの歌が私の中で
台湾の思い出とリンクするのだろう?
改めて思い出を紐解いてみると、
私が住んでいた頃の台湾は
一部の日本語が堪能な人たちは
優しかったけど
今のような親日のイメージはなかったのだ。
思い出す記憶がいくつかある。
日本語の書物は見つかれば
空港の税関で没収さることもあった。

公でないルートだったが、
契約すれば定期的に
日本の雑誌が自宅に届いたけど
楽しみにしていた本も

衛星放送などなかった当時
隠れて録画した日本のテレビ番組を
見せるくれる小屋があった。
目立たないように
小屋には看板もない。

いつもこの小屋に入る時
私はとてもドキドキした。
現地の人に見つかってはいけない
自分たちは悪いことをしている
そんなスリルと罪悪感にかられたから。
中に入ると、重たい暗幕がかけてあり
それをくぐると、
さらにもう一枚暗幕があった。

要するに、中で何をしているか
わからないようにする最善の策だ。
その奥は20畳ほどのスペースになっていて

そこで私たちは
大きめの家庭用テレビを
映画館のように鑑賞した。
ドリフだの水戸黄門だの紅白を。
現地の人に見つからないように
ドキドキしながら。
それから・・・
親に念を押され教えられたこと。

同じマンションの高校生のお姉さんは
私が挨拶をしてもいつもそっけなかった。

ある日、そのお姉さんの母親が
私に流暢な日本語で

だからかもしれない。
スラバヤ通りの妹への歌が
私の中で昔の台湾と重なるのは。
なぜ今のような親日国になったのか?
私は何にもわかってなかった。
その昔、
日本が台湾を統治していたが
終戦を迎え、日本は引き上げ
代わりに中国から
国民政府軍が台湾に上陸する。
外省人(中国から台湾に来た人)により
台湾が統治され、戒厳令が布告された。
そこから以後38年に及ぶ
世界政治史上最長の戒厳令がつづく。
1987年、戒厳令解除され、
翌年、李登輝氏が本省人(台湾人)として
初めて総統に就任。
私が台湾から帰国したのは1983年、
まだ戒厳令の最中だったということを
今更ながらに知ったわけだ。
試しに1987年以降に、
チャイナエアラインのCAになった
友人に尋ねたところ

やっぱり1987年を境に
台湾は親日になったようだ。
いや、また昔のように
日本人に接してくれるようになった
そう言った方が正しい?
今、台湾にいる私の頭の中では
やっぱりスラバヤ通りの妹へが
流れている。
でも、当時感じた切なさはなくて、
今はただあの頃の思い出を

『スラバヤ通りの妹へ』
♪妹みたいね 15のあなた
髪を束ね 前を歩いてく
かごの鳩や不思議な果物に
埋もれそうな朝の市場
痩せた年寄りは攻めるように
私と日本に目をそむける〜♪

そう言ってマリリンに笑われた。
言われてみれば、
台湾の人たちは日本に目を背けるどころか
向こうから温かく迎えてくれる。

いや、そうじゃない。
じゃ、なぜあの歌が私の中で
台湾の思い出とリンクするのだろう?
改めて思い出を紐解いてみると、
私が住んでいた頃の台湾は
一部の日本語が堪能な人たちは
優しかったけど
今のような親日のイメージはなかったのだ。
思い出す記憶がいくつかある。
日本語の書物は見つかれば
空港の税関で没収さることもあった。

公でないルートだったが、
契約すれば定期的に
日本の雑誌が自宅に届いたけど
楽しみにしていた本も

衛星放送などなかった当時
隠れて録画した日本のテレビ番組を
見せるくれる小屋があった。
目立たないように
小屋には看板もない。

いつもこの小屋に入る時
私はとてもドキドキした。
現地の人に見つかってはいけない
自分たちは悪いことをしている
そんなスリルと罪悪感にかられたから。
中に入ると、重たい暗幕がかけてあり
それをくぐると、
さらにもう一枚暗幕があった。

要するに、中で何をしているか
わからないようにする最善の策だ。
その奥は20畳ほどのスペースになっていて

そこで私たちは
大きめの家庭用テレビを
映画館のように鑑賞した。
ドリフだの水戸黄門だの紅白を。
現地の人に見つからないように
ドキドキしながら。
それから・・・
親に念を押され教えられたこと。

同じマンションの高校生のお姉さんは
私が挨拶をしてもいつもそっけなかった。

ある日、そのお姉さんの母親が
私に流暢な日本語で

だからかもしれない。
スラバヤ通りの妹への歌が
私の中で昔の台湾と重なるのは。
なぜ今のような親日国になったのか?
私は何にもわかってなかった。
その昔、
日本が台湾を統治していたが
終戦を迎え、日本は引き上げ
代わりに中国から
国民政府軍が台湾に上陸する。
外省人(中国から台湾に来た人)により
台湾が統治され、戒厳令が布告された。
そこから以後38年に及ぶ
世界政治史上最長の戒厳令がつづく。
1987年、戒厳令解除され、
翌年、李登輝氏が本省人(台湾人)として
初めて総統に就任。
私が台湾から帰国したのは1983年、
まだ戒厳令の最中だったということを
今更ながらに知ったわけだ。
試しに1987年以降に、
チャイナエアラインのCAになった
友人に尋ねたところ

やっぱり1987年を境に
台湾は親日になったようだ。
いや、また昔のように
日本人に接してくれるようになった
そう言った方が正しい?
今、台湾にいる私の頭の中では
やっぱりスラバヤ通りの妹へが
流れている。
でも、当時感じた切なさはなくて、
今はただあの頃の思い出を
懐かしんでいる。
コメント
コメント一覧 (40)
失礼ながら、ご存命でいらしたんですね。
すごい方にお会いできるなんて、かーたんさんならばですね。
カータン
が
しました
親って本当に本当に泣きたくなるほど大切な存在だよね💦
カータン 大変だけどママを大切に❤️
カータン
が
しました
カータン
が
しました
先生と母は仲が良かったのですが、経緯は覚えていませんが(喧嘩等したわけではなく)母に「先生のことは台湾人と呼びなさい、中国人と言ったら『中国と一緒にしないで』と言われるよ」と言われました。
人によって中国への思いは違うのでしょうか。
カータン
が
しました
カータン
が
しました
仕方ないので早朝独りで散策。問題はトイレ!何たって頻尿😓スーパーにもコンビニにも無い!店員さんに尋ねても無い!スーパーの隣りの金物店のおばちゃんが、何と!自宅のトイレを貸して下さいました😭親日家の方で良かったわ🤗
自分も海外に行ったら日本代表の気持ちでチャンとしようと思った。幼少期のカータンの経験は今の偏見の無い考え方に繋がっているのね。読んでてちょっとウルウルしちゃった。ほろ苦い思い出と共に台湾を楽しんで下さい✨早く旅行記読みたいわ~💕
カータン
が
しました
アジアの歴史を、1987年以前の台湾
を、肌で感じました。戒厳令下の台湾で
頑張ってくれていた日本人がいたこと。
今の親日感情の一因になっていると
感じました。
アジアの近隣諸国のデリケートな話題。
言葉を選ばれたと思います。
ありがとうございます。
機会があれば、2016年に亡くなられた
張栄発氏の功績も伝えて欲しいです。
カータン
が
しました
カータンのブログ本をすごーく昔(笑)に読んでいた頃から台湾が気になりだして、何のきっかけかインリンさんのブログを読むようになり、ますます台湾が気になり出してもう何年?
初めての台湾1人じゃ心細いし、友達は興味無いって言うし。。。
そんな時にカータン台湾ツアーが!!そうじゃんカータンに連れて行ってもらえば良いじゃん!でも日程が。。。(>_<)
今日のブログは大変勉強になりました❗
皆さん楽しんで来てね~
カータンまた企画してね!
カータン
が
しました
ご両親、娘さん達には口にせずともきっと色々つらい事もあったんでしょうね。
それを娘達に感じさせないのはご両親の明るさと娘達への愛情なのかな。
かーたんの人柄の良さの原点がわかった気がします。
カータン
が
しました
台湾には何度か行きましたがほんとに
みんな親切で、日本が大好きだと言って
くれたのを思い出しましたよ。
最後のコメント、ジーンと来ました。
カータン
が
しました
カータンのお父様やお母様、お姉様は当時の台北をどう感じていたのでしょうか…。
いつかカータンのブログか出版物で読んでみたいです。
カータン
が
しました
カータン
が
しました
数年前。台湾を観光した時、バスで隣になった若者が英語で話しかけてきて「親や祖父母世代は日本語を覚えたけど、僕らが覚えるのは英語!」
日本をやや侮蔑するような発言を繰り返すなか、私はやっと「日台友好」と言い返しました。学生は一瞬、キョトン。「そうだね」と微笑んで、無言になりました。
例えば、家族のなかでも生まれた順番で性格に違いが出るように、生まれた国の環境や施された歴史教育で植え付けられてしまう感情があるでしょう。長い長い時間軸の中で、私たちは平和と平等と友愛を目指して挫けずに進んで行かなくては、と思いました。
なんか表現が大袈裟になってしまいました💦
カータンさんの、ちゃんと自分の気持ちを分析して冷静に見つめつつも、愛をもって納得する姿勢が大好きです💖🍀
カータン
が
しました
ユーミンの歌の、海外の地名が出てくる曲ってキュッてなる。なんでだろ。それで慣れないの。
カータン、大変だったのね。
カータン
が
しました
台湾ではありませんが、ここ最近になり、わたしは韓国支社の人とも仕事をすることになりました。日本にいると、韓国には、とくに昭和のころは良いイメージはなかったこともあって、私自身近年のブームにもどこかのれずにいるのですが、
映画などを通じて、日本と韓国、中国の間のもっと生々しい面を知るようになりました。
日本でのK-POPの爆発的なブームや韓国からの旅行者がふえている一方で、向こうの若い人たちでさえ、職場でかわす言動の間に、深い日本への怒りを垣間見ることがたびたびあります。(私個人にたいしてはとっても親切に接してくれていますが)
そんなわけで自分の「感情」で、韓国のこと、中国(大陸)のことなどを少しずつ立体的に見るようになってきましたが、私たち日本人は、受験教育のなかでずいぶんと歴史を浅薄に学んできたようにかんじます。ですので、進学校、高学歴(と思われる)マリリンの発言は、たぶん日本のマジョリティのものだと思います。
カータンのことばとチャーミングなイラストで、せめて近所の国との近代の関係性をこうして知るのはとても意義のあることだと思います。少しデリケートなこともはらむときには、表現にずいぶんと気を遣われることもあるかと思うのですが、勇敢なカータンをいつも応援しています。
カータン
が
しました
もしかして、世界平和は学校教育で実現出来るのでは?なんて壮大な事を考えてみたり😃
過去や現在起きてる事に目を背けてはいけないけど、私も大人の一員として発言には気を付けなきゃなぁって思いました。
それにしても近所のお姉さんのママ、優しいなぁ✨
カータン
が
しました
カータン
が
しました
その精神、根本の暖かさにジーンと来ました
カータン
が
しました
私もユーミンを聴くと思い出す風景たくさんあります。。😌
カータンさんにとっては、台湾時代の元気なご両親の記憶にもリンクしているんですね。大事な思い出ですよね。
台湾たのしんできてくださいね!
カータン
が
しました
カータン
が
しました
カータン
が
しました
ああ、ハナミズキ。
カータン
が
しました
15年程前、台湾に旅行したとき、地下鉄で困っていたら親切なおじいさんに丁寧な日本語でガイドをしてもらいました。
地下鉄の方向が同じだったので、途中まで日本語で話しながら目的地を目指しました。
おじいさんは日本の統治時代に日本語の教育を受け、年を取ってからも日本語を忘れないために当時の同級生と
週に一度、「日本語を話す昼食会」を行っているとの事でした。私たちと遭遇したのもその帰りだったそうです。
先におじいさんの最寄り駅に到着し、降りるときに「観光に来て下さって本当にありがとう、また、どこかであいましょうね。
楽しい旅を」と握手をして、ホームでずっと見送ってくれていたのが本当に良い思い出です。
カータン
が
しました
自分も 台湾ツアー参加したかったです、カータンさん 両親とおねいさんのぶんまで 沢山楽しんできてくださいね。
カータン
が
しました
いつかカータンの台湾の思い出を元にした本格的な小説が読んでみたいです
実は私の叔母が台湾出身で、まさにカータンがおっしゃってる時代に日本に来ました
当時の日本のイメージや台湾の暮らし、日本に渡る方法、マフィアの話など中々ディープな話を色々と聞きました
今こうやってお互い暢気に観光しているってすごいことですよね
たった30年ですのに
カータン
が
しました
台湾というと親日のイメージでしたが、そこで初めて色々考えさせられたような気がします。
台湾は2回旅行で訪ねましたが、今は良好な関係でとても嬉しいです^^
カータン
が
しました
なんだか切なくなってしまいました(>_<)
で、この間の1月の記事、台湾タクシー事件。
そして9年前の5月の記事も思い出した私です。
昨年末、初めて台湾へ行きました。
歴史に詳しくない私なので少し調べて行きました。
が…さっぱりです(^^;;
でも印象深いのは、左ハンドルの車&右側通行。
日本の統治下時代もあったのになぜ?と思いました。
っていうか日本が少数派だったということを今更、実感しました。
台湾。まだまだ観たいところ、食べたいものがたくさんあります!
また行きたい! 絶対行きます!!
おススメのお店等またいろいろ教えてくださいね。
それにしても今回の台湾ツアー。カータンとともに参加したかった〜!
ホント残念☆ またの機会に〜(^-^)
カータン
が
しました
彼のお母様、そして彼の親戚にも日本語を話せる方が数人います。
台湾の街を歩く時「この建物は台湾が日本だった時代からあるんだよ」「昔は日本の名前を持っていたんだよ」とニコニコと笑顔で統治時代の話をして頂く事が結構あります。
そんな時私は自分からは昔の事を深く聞く事はせず、ただただ彼等が語る日本の話を笑顔で聞きます。
彼の家族や親戚も含めて台湾の方は確かに日本人に優しくしてくれる事が多い。
でもその事を「台湾は親日なんだ」なんて一言で片付けたり、統治時代の事を台湾人の前で日本人が軽々しく話題にするのは失礼だと思ってしまいます…。
カータン
が
しました
カータンのブログ読んでから「スラバヤ通りの妹へ」を聞く…。思い出は人それぞれだけど、しみじみと曲の解釈に考えさせられる。なるほどねぇ…(*´-`)
さておき、台湾で楽しい思い出作ってきて下さいね!
カータン
が
しました
台湾の歴史は小林よしのりの本くらいしか読んでませんが、近くて遠くて、でも近い不思議な国ですね。
まんぺいさんのモデルの百福さんも台湾出身ですね。二等国民と差別され苦労したとか。
人と一緒で完璧な国なんてどこにもないけど、歴史を学んで未来を考えるのは大切ですね。かーたんさんの思い出も貴重な歴史の一部ですね。(^-^)
カータン
が
しました
☓ 厳戒令
○ 戒厳令
だと思ってた…。
カータン
が
しました
カータン
が
しました
同じマンションに住んでいるのに、挨拶しても無視されたら辛いな
苦労なさったんですね
私も去年台湾へ15年ぶりくらいに旅行しましたが、感じたのは商売が上手くなったということでした(笑)
それと、台湾の女性と日本人の女性は表情が似ていますね
そのせいか、私は地元の人と間違われ中国語で道を尋ねられました
コンビニへ行くような格好をしてたから?
カータン
が
しました
人々の態度もそんな風に変わっていったなんて知りませんでした。
貴重な体験談をありがとうございます!
その頃と今では学校の歴史教育も違っているのかもしれませんね。
そんな経験があるのに台湾が大好き!なカータンがすごいと思いました。
きっと嫌なことを上回るいい思い出がたくさんあるのでしょうね。
カータン
が
しました
台湾の歴史にはそんなに詳しくないんですけど、中国が共産党と国民党で内戦状態になって、大陸は共産党が制覇して、台湾は国民党が統治することになって現在に至る…って思ってました。でも、台湾人が学校で教わる歴史って、「日本が中国に侵略戦争をした」って内容なんだそうで。でも若い世代にとっては、日本はお金持ちで近代的でファッショナブルな国で、一方老人にとっては、日本統治時代の官僚は知的で優秀だったのに、戦後に台湾に来た大陸中国政府の役人は信じられないくらい無知な田舎者で役立たずだったと。まあそんなような認識です。
カータン
が
しました
私も17歳の夏休み、当時香港に住んでいた姉のところに遊びに行き、観光だけでない日常の異国を経験しました。
香港はまた台湾とは違い、イギリスの影響もたくさんあったし、日本人に対する見方も台湾とは全然違うけど、あのスラバヤ通りの妹への独特な曲調はアジア感をすごく醸し出してました🍀
私はその後バリ島に旅行に行って、インドネシアの空気を感じた時に、ユーミンのスラバヤ通りを思い出しました🤗
そしてそこで、パスポートの入ったカバンを引ったくられ、バリ島の警察署に行き、事情聴取されるというハプニングに合い、そこでも観光だけでないインドネシアを経験するということになりました😅
カータン
が
しました
私は四十路半ば。
それでも昔は、、、とか思うことも色々。
歳を重ね、いろんな思いも。若いときはこんなこと全然、感じなかったな。
親が老いていき、今は悲しい現実もあるのだけど
今日は久しぶりに両親に会い、このときだけは
私が娘になれる瞬間なんだな、と感じました。
カータン
が
しました
ユーミンの スラバヤ通りの妹へ
私も 好きです。イントロで アジアの
光と風と砂ホコリが 伝わってきますよね。
ユーミンの 叙情的な曲って その風景が 伝わりすぎて 思わず つーんと 悲しくなります。
カータン
が
しました
現地の高校に通っていましたが、歴史の授業で辛い思いをしたことを覚えてます。
ですので最近の台湾=親日 ぶりに驚かされることがあります。嬉しいことですが、歴史をきちんと学び、目を向けなければいけないなと思いますね。
カータン
が
しました
そおですよ、お父さん現地でよく頑張られ
てましたよね。
お母さんも、子供が不安にならないように
一生懸命だったのでしょうね。
あのユーミンと同じ服は、台湾で着てた
のでしょうか?
ユーミンの曲が、台湾の思い出と重なるの
でしょう。
台湾では、日本語を話さないようにとか
色々あったんですね。
楽しい思い出も、たくさんあったのでしょう。
台湾、楽しんで下さいね。
お姉さんも、行きたかったでしょうね。
カータンツアー、私も行きたかったです。
カータン
が
しました