ちょっと切なくなった話
長女は、小さい頃から
おばあちゃん子だった。
初孫とあって、
母の可愛がり方は半端なかったし、
何よりふたりはウマが合った。
下の子の出産で
私が4ヶ月入院した時は、
平日は私の実家から学校に通っていたし、
中学生になっても、高校生になっても
長女はよく祖母の家に遊びに行ってた。
しかし、
母の認知症が悪化して以来、
長女の足は徐々に遠のいていった。
大学生で忙しいものあるが
行くと、ちょっと切なくなると。
先日、実家に行ったとき。
母がいつも座っているところに
物が溢れ、半ば雪崩を起こしてた。
また下手に触ると嫌がるかと思ったが
ダメもとで言ってみた。
すると、驚いたことに
これは助かる!
メチャやりやすいではないか!
要らないものと必要そうなものを
仕分けしていた時、
数枚の写真が入った透明の袋が出てきた。
私があげただろう
娘たちが小さい頃の写真。
その中に混じって出てきた写真。
こんな写真、
私があげた覚えもなく・・・
となると、長女がプリントアウトして
あげたのだろう。
二人のこんな会話が目に浮かんだ。
親には言いにくいことも
きっと祖母には言いやすかったに違いない。
母がそう言ったとき、
私は長女の気持ちがわかった気がした。
娘の私でさえ、
母の認知症を未だ受け止められない時がある。
おばあちゃん子だった長女は
複雑な気持ちになるだろうなぁと。
でも、同じ話を何度でも
新鮮に聞いてくれるよ!
なんて、思えるのはもう少し先か?
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□■□■□■□■□□■□■□■□■□
昨日は更新できなかったので、今日はちょっと早めの更新です。
私でも、母と何を話していいのかわからなくなる時がある。母も自分の記憶が曖昧になっていることをわかってるから、自分から積極的に話そうとしないし。二人で沈黙・・・なんてこともよくあることで・・・。長女はもう大学3年生だけど、母の中ではまだ制服を着た長女のイメージみたい。なるべく「大学でね」という話をしても、次行ったら振り出しに戻ってるのね。 ひとりではなかなか行かなくなったけど、私についてくるときもあるの。でも、あまり会話は進まない。母がやっぱり無口だから。でも、それでもいいと思っている。
おばあちゃん子だった。
初孫とあって、
母の可愛がり方は半端なかったし、
何よりふたりはウマが合った。
下の子の出産で
私が4ヶ月入院した時は、
平日は私の実家から学校に通っていたし、
中学生になっても、高校生になっても
長女はよく祖母の家に遊びに行ってた。
しかし、
母の認知症が悪化して以来、
長女の足は徐々に遠のいていった。
大学生で忙しいものあるが
行くと、ちょっと切なくなると。
先日、実家に行ったとき。
母がいつも座っているところに
物が溢れ、半ば雪崩を起こしてた。
また下手に触ると嫌がるかと思ったが
ダメもとで言ってみた。
すると、驚いたことに
これは助かる!
メチャやりやすいではないか!
要らないものと必要そうなものを
仕分けしていた時、
数枚の写真が入った透明の袋が出てきた。
私があげただろう
娘たちが小さい頃の写真。
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こんな写真、
私があげた覚えもなく・・・
となると、長女がプリントアウトして
あげたのだろう。
二人のこんな会話が目に浮かんだ。
親には言いにくいことも
きっと祖母には言いやすかったに違いない。
母がそう言ったとき、
私は長女の気持ちがわかった気がした。
娘の私でさえ、
母の認知症を未だ受け止められない時がある。
おばあちゃん子だった長女は
複雑な気持ちになるだろうなぁと。
でも、同じ話を何度でも
新鮮に聞いてくれるよ!
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昨日は更新できなかったので、今日はちょっと早めの更新です。
私でも、母と何を話していいのかわからなくなる時がある。母も自分の記憶が曖昧になっていることをわかってるから、自分から積極的に話そうとしないし。二人で沈黙・・・なんてこともよくあることで・・・。長女はもう大学3年生だけど、母の中ではまだ制服を着た長女のイメージみたい。なるべく「大学でね」という話をしても、次行ったら振り出しに戻ってるのね。 ひとりではなかなか行かなくなったけど、私についてくるときもあるの。でも、あまり会話は進まない。母がやっぱり無口だから。でも、それでもいいと思っている。
コメント
コメント一覧 (80)
我が家も闘病中の父は「死ぬ死ぬ詐欺と言われる位まで頑張る!」って明るく言ってましたが、少しずつ弱って行きました。
でもご両親とお話できるカータンは幸せです。
カータン
がしました
昭和初期の人なのに、孫に恋愛論を話すような母でした。絵を描いて銀座で展覧会をするようなイケテル(笑)母が、志村けんのおばあさんのように、なり。それでもまだ自覚があった頃は、私本当に志村けんみたい。と爆笑してたので、まだまだ母らしさで救われていました。徐々に家族関係がわからなくなった時は正直二年前に亡くなった時よりも、ショックでした。(涙)
家族は少しずつ現実を受け止めるしかないのかな。って思います。
カータン
がしました
でもいつ頃からか、【おばあちゃんの笑顔が見れればそれでいいや】という考えにシフトしていきました◎
そんな祖母はもう私が孫だということは覚えていません。とても悲しいですが、食卓を囲んだり、たわいない話をしたりする祖母の楽しそうな笑顔を見れればそれだけでいいと思っています(^^)
最近私のムスコを見ると祖母もとても喜ぶので、老々介護の祖父のためにもこまめにひ孫を連れて行くようにしています!
まだまだ大学生のぺーちゃんと、当時の私の年回りが似ているので他人事とは思えずいつも読ませて頂いてます。
ぺーちゃん、なかなか頭でわかってるけど行動はできないと思いますが、きっとおばあちゃんはぺーちゃんのお顔が見れるだけで嬉しいと思いますよ!ぜひお顔見せに行ってあげてくださいね★
カータン
がしました
2年ほど前に検索画面からたまたま記事を読み→たちまち夢中→遡って一気読み
させて頂きました。
と〜て〜も幸せで〜した〜❤
ありがとうございました。ペコリ
以降、現在は毎日のように飢えて記事を待っています。ガウガウ
両親は10年おきにガンで亡くなりました。
亡くしてから、年々身に沁みるのは
看病中、体力のなくなった親と、無言であっても、
同じ空間にいることができて良かった……
です。
言葉で話せなくとも、すぐそこに触れ合える安心感がお互いにあったのだなあと
その思い出は宝物だったなあと
失った今は、改めて思います。
だってもう会えないから。さわれないしね!
もちろん壮絶な親子喧嘩は日常茶飯事でしたよw
私の大好きなカータンを育てて下さった素敵なご両親、なるべくなるべく会ってあげて下さい。
お身体に触れてあげて下さい(嫌がられてもw)
これからもカータンを応援します。
カータン
がしました
忘れられると本当にショック。
カータン
がしました
残酷なことを言うようですが、会えるときに頻繁に行っておかないと、次に会うときは「あなたは誰?」と言われてしまう可能性もありますよ。私はとてもショックだったし、その時に「どうしてもっと会いに行かなかったのか」と涙が止まりませんでした。
でも、認知症とはそういう病気なのです。誰も悪くないことだけは忘れないでください。
カータン
がしました
ぺーちゃんが辛い思いを乗り越えて、お婆ちゃんに会いに行けるようになりますように。
私は母方の祖母を癌で、11年後に祖父を認知症で亡くしました。
祖母の時は12才、弱っていく祖母を受け入れられず、ホスピスでも本を読んだりし、母に「お婆ちゃんとお話ししなさい」と窘められました。しかし、決して受け入れることはありませんでした。
大好きだからこそ、変わる事が受け入れられないんですよね。
数ヵ月後に祖母が亡くなった時、死ぬほど後悔しました。何故もっと話さなかったのだろう、と。
15年たった今も、夢に見ます。
残された祖父はその分、青春をすべて尽くしました。土日は勿論、クリスマスもお正月も、誕生日も全て祖父と過ごしました。
途中彼氏もでき、土日に行くのがとても嫌になりました。それでも共に過ごしました。
認知症でホームに入ってからは、成人式の振袖を見せに行きました。「○○(母)、そんな格好でどうした」と言われました。
その4年後に、息をひきとりました。
やはり後悔はあるものの、あれだけ尽くしてよかった、と自分を褒められます。振袖も、母と呼ばれても、見せてよかったです。
不謹慎な話ですが、人が亡くなった後、後悔するのは残された人間です。
ぺーちゃん、お婆ちゃんが大好きだからこそ、辛いですよね。ぺーちゃんとの日々は、仮にお婆ちゃんが話さなくなっても、心の中にずっとあると思います。
娘さんたちが「大事にされたし、大事にした。
本当に良かった。」とずっと思えますように…
カータン
がしました
さみしい。
時の流れは残酷に感じる時がある。
カータン
がしました
寂しいけど寄り添っている気持ちが伝わってきます(^^)
カータン
がしました
ゆっくり、他のエピソードも読ませて頂きたいと思います。
カータン
がしました
カータン
がしました
健在の祖父は会う度に嬉しそうにニコニコしてくれます(私のことは施設の介護士だと思ってるはず)
それでも会いに行きますし、一緒に時間を過ごします。会話は無くても一緒に座ってるだけでもなかなか良いものです。
あと、母方の祖母が亡くなった認知症の祖父に対して女優のように華麗に色んな役をこなしていたので
私は女優…私は女優…と思い込んで会うとなかなか良い対応が出来ますので是非。
カータン
がしました
物忘れはありませんが、病と闘うようになった母に会うのは娘も気持ちはしんどいようです。
ただ、担当医に余命を聞かされてから変わった様で、頻繁に行く様になりました。矢張り後悔したくない、と。
実の子である私達だけでなく孫である娘や息子の世代も祖父母の老いを見ながら気持ちの折り合いをつけなくてはならない、難しい時期ですね。
カータン
がしました
今回のブログを見て、自分のことのようで…はじめてコメントをします。
わたしにも、認知症のおばあちゃんがいます。
どんどんいろんなことを忘れ、わたしのことまでわからなくなっていくおばあちゃんが受け入れられなくて、忙しさを理由にずっと会わないでいました。
しかし、この前勇気をだして施設へ面会に行きました。
でもおばあちゃんはもう、誰のこともわからず、ただぼーっと前を見つめるだけでした。
どうして、まだ少しでもわかるうちからたくさん会いに来なかったのだろうとすごくすごく後悔しました。
娘さんの気持ちが痛いくらいわかります。でも、わたしのように後悔するときが来ないように、おばあちゃんとの時間を過ごしてもらえたら嬉しいなと思います。
駄文と私情を、申し訳ありませんでした。
カータン
がしました
でも、症状が進んで誰だかわからなくなる前に、たくさん会ってあげてほしい。
今のことがわからなければ、昔の話を聞きに行ってあげて欲しい。お嬢さんも忙しいでしょうけどね。
来て欲しくない未来、もし、もしですが、お嬢さんがもっと会いに行けばよかったなんて後悔なさらないように…なんて思いました。
お節介ですみません。
カータン
がしました
10年程前にパワフルで元気な祖母が認知症になった時はショックだったので、カータンとぺーちゃんの気持ち分かります。
ぺーちゃん おばあちゃんに短くお手紙書いたらどうですか?
老人ホームに入った祖母に、絵はがきを毎週送っていました。
季節の花の絵や好きな猫の写真などで。
絵はがきなら、文章は少なくて良いので 書く方も受け取る方も負担が少ないと思います。
(100均の可愛いのも使ってました)
軽かった頃だったので、読み返したり絵や写真を見たり楽しんでくれた様なのでオススメです。
カータン
がしました
そういうショックもありました。子供の頃の話ですが
その頃、弟と私の格差もありましたから尚更「私はどうでもいいんだ」とかなり尾を引く出来事でしたねぇ。
カータン
がしました
堀田あきお、かよ先生の「親の介護はじまりました」と、その続編である「親の介護十年目」を読んでいただきたいです
奥様のお母様が足の骨折から寝たきりになり、認知症になり、だんだん何もわからなくなっていく…という実際の介護の記録を描いた漫画です
可愛らしい絵柄とギャグタッチですが、家族とは介護とは、実の親が認知症になったらととても考えさせられる漫画です
カータン
がしました
私も2年前に亡くした祖父っ子だったので、おじいちゃんは好き。でもどんどん忘れていって私をまだまだ若い学生だと思って祖父は誰なんだろうと、祖父の外見をした別の人にやっぱり思える時がありました。
逆に両親が少し物忘れっぽい事があると叱咤したりしてしまいます。
距離感の違いですかね?
お母様の進行が緩やかになりますように!
カータン
がしました
私の場合も最初はショックでなかなか受け入れるのが難しかったです。少しずつ少しずつ受け入れることができて、時間と自分の人生経験が解決してくれました。受け入れられるようになってからは、またとっても楽しいおばあちゃんっ子に戻りましたよ。どんなに認知症が進んでも、おばあちゃんはおばあちゃんでした。当然ですが^^
そんな祖母は一昨年、認知症になってから、ほぼ20年後に天に召されました。今となっては、私の人生に認知症を教えてくれて、とても貴重な経験をさせてもらえたと思っています。きれいごとに聞こえますが、人生の最後に認知症を通して大事なことを教えてくれたのかなぁと思っています。
きっとブログには書けない想いも出来事もおありかと思いますが、かーたんのブログに励まされてる方は多いですよ。いつもありがとうございます。
カータン
がしました
どうしたの?お母さん、しっかりしてよ!となんとか間違いを正そうとしたり、記憶を再確認したり、
あらゆる方法で食い止めようと必死でした。
話をしてもすぐに忘れる時には、つい「前に話したじゃない」とか「どうして忘れちゃうの」とか
そんな事を繰り返し、人との会話が、こんなにも過去の記憶に基づくものだと思い知らせれました。
母は自信を喪失して癇癪をおこし、怒鳴られたことも何度もありました。
でも、だんだんそんな母を受け入れていく心の余裕が生まれて行きました。
きっとそんな母に慣れて行ったのだと思います。
仕方がないのです。現実をすべて受け入れざるを得ません。開き直り?
決して過去の母が消えてしまったわけではなく、自分の心の中には生きてる。
以前とは違うけれど、今自分の目の前にいる母親が、まぎれもなく今を生きる母親であること。
少しでも笑顔の多い毎日になるよう、楽しい話をしていきたいです。
母を通して、私、子供たち等々、人間はやがてこのように老いていくのだ、ということを
学んでるのでしょうね。そうやって見せてくれてるのでしょう。
カータン
がしました
皆さんのコメントもとても身につまされます。
勤務中、認知進んだ方の家族様(女性親族が多い印象)に「最近はもう、私のことも分からないようで。どう接したら良いか…」など訴えられることありますが。
一介護士の意見ですが、家族様お見舞い来てお顔見せるだけでも充分かと思ってます。
元気な頃知る方々には切ない話ですが。認知症は不安症でもあると思うので。
家族さんが状態把握され会話噛み合わずも和やかに声かけ→少しでも本人の不安解消→安定した状態に繋がれば何より。
また家族様は本人さんへ気持ちや介護の先行きなど、現在の不安をケアマネ等と共有し軽減することも大事。
ケアマネも相性あるので(^_^;)皆さん良い縁があるような祈ります(-人-)
カータン
がしました
義母と二世帯で同居してますが、認知症では無いけれど82歳なので色々と忘れがちだし、話の説明も回りくどくて結局何が言いたい?と私や主人はいつも思うけど、孫である大学生の私の息子は黙ってニコニコ聞いてあげて、義母とギュッとし合ってお小遣い貰って戻ってきます(笑)
息子曰く、聞いてあげるだけで良いんだよ、話はーって私達よりよっぽど大人で優しい対応‥
お小遣いも最初は貰い過ぎか?と思っていたけど、義母の楽しみらしいので渡す時は小さい金額にしてもらって、有り難く頂く事にしていて(節税の為と義母も笑ってるし💧)
身近に義母がいてみていると、自分も将来はあんな風に老いていくんだなぁとある意味、覚悟が少しずつ出来てきます。
とても怖いけれど淋しいけれど、誰もが避けては通れない道だから‥
カータン
がしました
話題なのでご存知の方も多いとおもいますが、その話の中で高齢の大家さんの怪我の回復が遅いことをのことを『僕』が先輩に呟くシーンがあります。その時に先輩芸人が「枯れた花はもう咲けへん」というのです。(そのあとあーそうか、という言葉が続きます。)
でもそうなんだ、それが現実なんだ。
だから花を咲かせるのではなく(過去のことをあれこれ思うのではなく)ゆっくり下りていく坂道を両親のペースに合わせて付き合おうと思いました。
現実は金銭的なこと、自分の体力や生活を考えるといっぱいいっぱいでちょっと綺麗事ですがね。
カータン
がしました
特養の方にはこんなに会いにきてもらえてお母さまは幸せね、と言われて泣きそうな気持ちになりました。
母は話もできませんでしたが、言葉をかわすことができなくても手を握っているだけで嬉しそうにするんですよね。会話はこれからも少なくなっていくかもしれませんが、仕方がないし、あまり気にせずとりとめのない日常の話などされるのはどうでしょう。
カータンのお母さまも不安な気持ちでいらっしゃると思うので、とりあえずいろいろあるけど私たちがそばにいるから大丈夫だから、という気持ちで会いに行かれるといいんじゃないでしょうか。
カータン
がしました
私はぺーちゃんより3つくらい歳上の、ほぼ同世代です。私と祖母の関係も、ぺーちゃんとおばあちゃんの関係のようでした。小さい頃から誰よりも大好きで、しょっちゅう遊びに行って、大人になってからも親に言えないようなことも言える相手でした。私の祖母も認知症になり、うつも併発して昔の面影は無くなってしまったとき、祖母に会うのをすごく躊躇っていました。自分が辛くなるから、病気の祖母を見て昔の祖母はもういないんだって思うと、悲しくて。ぺーちゃんの気持ち、すっごく分かります。ただ、高齢者の体調とは急変するもので、去年祖母は亡くなりました。今でも受け入れられません。だから、ぺーちゃんに伝えたい。辛い気持ち、分かります。でもいつまでもおばあちゃんが話の出来る状態でいるとも限らない。そんなとき、私のように後悔しないでほしいです。厚かましくてすみません。いつも楽しくブログ拝見しております。カータンさんも介護大変なことと思いますので、お身体に気をつけて下さい。
カータン
がしました
私の母も若年性で認知症になり、13年経ちます。
今月から施設にお世話になる事になりました。
会話も普通に出来ないので、受け応えが出来たらいいなぁと思いながら、会話はないけど毎日会いに行ってます。
嬉しそうな顔をするので…やはり会いに行くだけでいいのかも。
カータン
がしました
今の日々に感謝して、母ともいろんな話をしたいなぁと改めて思いました。
カータン
がしました
私の祖父は祖母が亡くなってからは施設に入っていました。認知症で、耳もあまり聞こえにくかったので、私もあまり顔を出す事が少なかったなぁと思い出します。よく、当時幼稚園児の息子を一緒に連れて行くと、今何歳?もう幼稚園行ってるんか?と毎回ニコニコしながら聞かれました。
母は、その当時毎日のように施設に行き、同じような話をいつも笑顔で毎回して・・その姿を見ていて母は辛くないのだろうかと思ったりしました。でも実際母はやらなければならない現実と向き合いながら、受け入れていってたのでしょうね。
今は元気で、孫を可愛がってくれている母ですが、いつか認知症になったら・・。考えるだけで胸が苦しくなりますが、今日のカータンさんのお話を思い出すと少し気持ちが軽くなれそうです。
私は口下手であま日々に感謝
カータン
がしました
カータン
がしました
とっくの昔に亡くなった祖父も認知症でしたので、いろいろ思い出しました。私のことはすっかり忘れているが自分の娘の子ども、と聞くとニコニコしてそうか~って微笑んでくれました。懐かしいなあ。もっと会いに行けばよかった。
カータン
がしました
過去と言ってもものすごい過去、自分が中学生の頃の修学旅行、盆踊りなどのお祭りの話とか小さい時からの父母兄弟との思い出とか。
そこらへんの話を「その時のお祭りは誰と行ったの?楽しかった?」みたいに聴くとイキイキとお話ししてくれるかもしれません。
カータン
がしました
うちの義母はケアハウスに住んでいて月に2回ほど夫と訪ねます。私は洗濯や部屋の掃除などバタバタしてて夫はボーッとテレビを見たり居眠りしたり(笑)耳が遠い義母とは必要な事しか話しません。
義母もほとんどイヤホンでテレビを見ててみんながずっと無言…なんて事もしばしばです。
それでも帰ろうとすると「もう帰るの?もっとゆっくりして行けばいいのに…」と涙ぐみます。
月に2回行ってるのに覚えていないので、久し振りに会ったと思ってるんです。
会話しなくても、1人じゃない誰かいてくれる、それが身内なら尚更嬉しい事なんでしょうね。
カータン
がしました
私の母も年齢からか、物忘れがひどくなっているようです。 我が家は実家から遠く離れて暮らしており、今週から帰省するのですが久しぶりに会ってどうなるか心配です(ちなみに実家には泊まりません)。
我が家の場合は母の物忘れが子供の命に関わる可能性もあり、もう帰省も難しくなるかな...と考えていたところです。簡単に会いに行ける距離でもないので、様子を見ることもお世話もできそうになく、これからが心配です。
カータン
がしました
私は父が生前、認知症で子供のように変わっていったので、
父が亡くなった今、老人を見るより小さな子供を見て
父を思い出し切なくなったりします
お母さまはまだ元気なのに こんなこと言ってすいません。カータンさんもお母さま、お父さまも元気でいられますように。
カータン
がしました
私はかーたんと同じ年齢です。
親が老いていく姿を目の当たりにすると切なくなりますよね。
出来るだけ親孝行したいなと思っています。
カータン
がしました
多くの仲間が通る道。
10代は受け止めれなくても、
50代は、あー自分がなるのも、、時間の問題なのかと諦めが。
私の場合は、切なさ期間は短く、きりきり怒り、
そのうち対処せざるをえない問題が山積みで
自分の睡眠確保で精一杯でした。
同じ話を嬉しそうに何度もする母の言葉はBGMになりました、、。
冷たい娘でした。
カータン
がしました
祖母が認知症になってしまう寂しさや戸惑い、とてもよくわかります。
私の祖母は筆まめな人だったので、認知症を患ってからもしばらくはハガキをくれていました。
住所は書けなくなっていたので、介護に行った母から手渡しされました。
私も返事を書きました。
本当は会いに行くのが一番だったんですが、行けない時は手紙にしました。
祖母からの最後のハガキはまだ持ってます。
ぺーちゃん辛ければ、ぺーちゃんの知っている元気なままのおばあ様に話したいこと、手紙に書いて渡しても良いんじゃないかなと思います。
したためなくったって、写真と簡単なメッセージだけでも喜ばれるんじゃないかな。
認知症はいろんなものを奪っていきますが、かけてもらった愛情までは奪えません。
ぺーちゃんがぺーちゃんのままで、これからもおばあ様と優しい時間が過ごせますように。
カータン
がしました
どうか少しでもおばあさまが元気なうち、学生のうちにおばあさまにお顔を見せてあげてほしいです。きっと社会人になると今以上に忙しくなると思いますし、、
後悔しないために、です。
カータン
がしました
カータン
がしました
おばあちゃん子という訳では無かったですが、免許が取れるようになってからは祖母の買い物に付き合うようになり、今日は魚が安いね。私がいるならお米も買っちゃおうか。なんて買い物していたのが懐かしいです。
そのまま家でご飯を一緒に作ることもあり、レシピを教えて貰ったりしました。
私も祖母も特別話す方では無いので、図書館に行き、後は別行動と各々過ごす事もありました。
ただドライブしたり、公園を歩いたり、思い出すのは特別な日ではなく、一緒にいた普通の日です。
ただ話もせずTVを見ていたり、明日は雨らしいよ。なんて他愛も無い話をしていた隣に祖母がいた場所が懐かしいです。
カータン
がしました
カータン
がしました
祖父に認知がでてある時、孫の中で私の名前だけが出てこないのを隣で聞いてしまった時の事は20年近くたっても胸に残っています。
祖父との写真も全然なくて、会えなくなって思うのは、他人のように思われても側にいればよかったと思うばかりです。
カータン
がしました
私もつい、手紙や電話を延ばし延ばしにしてしまいます。そうすると余計遠のいてしまって。
カータンの「何度でも新鮮な気持ちで聞いてくれるよ」という言葉に励まされました。素敵な考え方を教えてくれてありがとう。
カータン
がしました
私の母、今年の1月に逝去致しました。
昨年12月に癌がわかり、その時にはすでに末期で、緩和することしかできずにあっという間にひと月で亡くなってしまいました。
認知症ではなかったのですが、病気や、薬の副作用でどんどん混乱し、話が支離滅裂になっていき…
私には小学二年生の娘がいるのですが、ペーちゃんとお母様と同じように、やはり私の母も、初孫である娘をすごく可愛がってくれ、そしてウマが合う仲良しの孫と祖母だったので、変わっていく祖母を見る娘はいつも悲しそうで胸が痛かったです。
母が買ってくれたぬいぐるみ、名前を母と娘と2人でつけたのに、娘が「ララちゃん連れてきたよー」と見せたら母は「なにそれ?知らない。」
あの時の娘の表情は今思っても泣けてきます。
それでも、毎回病院から帰る時、娘は私に「お母さん、今日はおばあちゃん、昨日より元気だったよね。来月にはお家に帰れるよね。」って、毎回毎回言ってました。
ペーちゃんはうちの娘より大人だから、より一層辛いのかなとおもいます。思い出も、年月分重いよね…
変わっていく親を近くで長く見守ることは想像以上に辛いんだろうなあ。
私はあっという間に母が亡くなってしまったので、羨ましい気もするし、語弊はありますがホッとするような、ありがたいような気もします。
全てを含めて、生きることの寂しさや切なさや感謝を感じます。
まとまらない(笑)長文失礼しました。
季節の変わり目体調崩しやすいので、カータンさんも皆さまも、お身体ご自愛くださいませ。
カータン
がしました
カータン
がしました
優しくていつも可愛がってくれていた私の知っている祖母が壊れていくようで、すごく不安で寂しくて、その気持ちを誰にも言えず、トイレに隠れてシクシク泣いていた短大生の頃を思い出しました。
入院したときも、別部屋の若い男性入院患者さんのベッドに入っていってしまったこともあったようで、年頃の私は混乱しその行動が理解出来なかった。
ですが、祖母は昔の記憶で、男性患者さんを私の兄(祖母にとっては初孫)と間違ってしまった可能性もあるなーと思い直したり…
認知症を患っても、仕事をしていた母に代わり、わたし達孫に愛情をたくさん注いでくれた祖母を大好きな気持ちは変わらない。だからこそ切なさも倍増なのですが…亡くなった今は良い思い出ばかりです。
カータン
がしました
老眼やらその他指の怪しい動きで色々起きますよ〜
素敵なお婆ちゃまが居てくれて、いいですね。
まだ若いのに、こんな気持ちになれるなんて本当に良い関係なんだなって思えました。
カータン
がしました
最近、子供の頃や祖母や両親が若かった頃の写真を見ると、泣けてしてしまうから見れないです。
長女ちゃま、まだお若いのにおばあちゃんっ子だっただけに、ちょっと辛い体験をしてしまってますね。
でも素敵なお婆ちゃまが近くには
カータン
がしました
初彼ができた時、お堅く心配性で過保護な母には言えなかったけど、認知症の祖母には告白しちゃったことを思い出しました。
祖母は「えー!良かったじゃん‼どんな人なのー?」って女学生のようにはしゃいで聞いてくれて、喜んでくれて、嬉しかったなぁって思い出しました。
大正生まれの祖母、私はオクテだった現在アラフィフな女の古ですが…
いつも新鮮な気持ちで話を聞いてくれる祖母はかわいかったです。
私は長女が竜ちゃんと同じで中一です。
同じ思いをさせることになるだろうなぁと思うと…やっぱり切ないですね。
カータン
がしました
ぺーちゃんの気持ちも分かりますし、ただ自分は祖父の所にあまり寄り付かずとても後悔してるので、時たま顔を見せに行ってみても・・・と思います。
最近は近所のお年寄りの方の介護の話を母からよく聞きますし、外で大声出してるのも聞こえる事もあります。お世話になった方もいるのでなんだか複雑です。
そして、父が母に家の祖父の介護は大変じゃなかったよなというような話をしたので、母はとてもショックを受けてました。
介護は当事者じゃないと分からないですね。
長文、まとまらない文章すみません(><)
カータン
がしました
共感されてる方が多いかと思います。
もう随分経ちますが、遠方に入院していた母を何度も見舞うことが出来ないまま呆気なく亡くしました。(私はひとりっ子で最後は看取ることができましたが…)
今になってよく 母の生い立ちなどもっと聞きたかったなと思います。母が母であった時の気持ちももちろんですが、若い頃どんな気持ちでいたのかなど…あんなにお喋りしてたのに昔のことは ほとんど知らなくて時々悲しくなります。
お母さまの昔のお話も聞いて差し上げたらいかがでしょうか?最近の過去より昔のことはよく覚えてたりするんですよね(私だけ😅?)
カータンの知らない頃のお話なら、それ違うとか思わないですみますしね。昔話で出てくることって楽しい思い出が多いですし。勝手を言いましたが、お母さまが少しでも カータンやご家族のみなさんと楽しく会話できることを祈ってます。
カータン
がしました
孫より娘の方が切なくて苦しくなると思うけどな・・・
カータン
がしました
もしかしたら、そのうち、皆んなをのことを
忘れてしまうかもと思うと不安でいっぱいです。
介護に正解はないと言われています。
その時の状況によって、
臨機応変にやっていきましょうね。
カータン
がしました
ペーちゃんの気持ち、よくわかります。
私の長男も、おばちゃん子でとても可愛がってもらいました。
私の、母が骨折して入院した時、認知症が進んでしまい、息子の顔がわからなくて、息子はとてもショックを受けていました。
いつまでも、元気なお婆ちゃんの思い出があるから。😔
悲しいけれど、仕方ないですよね。
なるべく、時間がある時は、会いに行ってます。
喜ぶから、お互いに頑張りましょう。
🤗
カータン
がしました
お母様の認知症の進み具合に一喜一憂し
泣いたり怒ったり切なくなったり
まるでジェットコースターに乗ってるような毎日だと思います。
私の母は15年前、58歳で若年性認知症を発症し
現在は胃瘻、気管切開、病院で寝たきりの状態です。
発症し始めは、アリセプトを服用しながら
計算ドリルを解いたり、畑作業をしたりと
本人は嫌だったと思われる事を無理矢理
やろう!やろう!と押し付けていました。
が、若年性な為か進行は早くあっと言う間に
歩けなくなり誤嚥性肺炎をおこしたり生命の危機に直面したこともありましたが
今は穏やかに入院生活を送っています。
15年間、父が1人で面倒をみてくれていたので
私は自分の生活を中心に今日まで過ごしてきましたが、父が重度の鬱と診断され
1人っ子の自分は不安で押しつぶされそうです。
カータンも大変な毎日ですが
自分が倒れたら全てが終わる
息抜きしながら毎日を乗り切りたいですね。
カータンの毎日楽しいおはなしが
私のパワーの源です!
お母様の調子の良い時に
たくさん思い出作ってくださいね!
長文失礼しました。
カータン
がしました
何を話そうか、忘れていることが多くて話が進まないし、毎回同じ話になってイライラしてしまって後で切なくなって。
娘さんも大好きでとても近い存在なのにつらいですよね…。
気持ちの切り替えが難しいですね。
カータン
がしました
みんな誰でもいつかは老いるけど、
お母さんはいつまでもしっかりしてると
なぜか思っちゃうんです。
共有してくれて、ありがとうございます。
カータン
がしました
いつも楽しませてもらってます!
かーたんさんのお母さんの認知症の切なさめっちゃよくわかります。
私の母親もそんな感じでした。共感です。
でも認知症で色々忘れてしまったりするけど
親子の絆はちゃんとわかってると思いますよ〜
大変だけど楽しんで付き合えたら一番いいですよね〜😘ファイト〜
カータン
がしました
いつも楽しみにしています。
とくにまおちゃんの記事が好きです。
私は祖父母のいる家庭で育ち、
母方の祖父母もまあまあ近くに住んでいたので、加齢による認知症も色々経験しています。
もしも時間と心に余裕があったら
是非、ご両親の若かった頃の話を聞いてあげると良いかもしれません。
初期の認知症なら、若い頃の話は昨日の事のように話す事が多いです。
それもとても楽しそうに話します。
脳の活性化にも役立つと思いますよ。
是非、お試し下さい。
カータン
がしました
カータン
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母は弟ばかり可愛がり、私は寂しくておばあちゃんになついてました。
それから数年経ち、おばあちゃんは逝去し、弟は嫁さんにつき…ぼっちになった母と私。それぞれが胸に思うことがあって 打ち解けられない、不器用な似た者同士です😅😅😅
カータン
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おばあちゃんが亡くなるのも寂しいけれど、
徐々に認知症が進行して忘れてしまうのも、すごく寂しくなりますね。
カータン
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消しゴムが何度消そうとも、筆圧高めで何度も書いてたらぱっと見消えていても痕が残るようにならないかな…
カータン
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やっと姉の根気ある説得で、
投薬し始めました。
ちょっと先輩のかーたんさんの
お話、いつも為になります。
ありがたいです(泣)
心の準備が少し出来ると言っては失礼でしょうか…
誰?って言われないように、電話をしたり、オレオレと電話口で言って刺激を与えています(笑)
カータン
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私も今、母が施設に入り土日は母を家に連れてきたりご飯に連れ出したり少しですがそんな介護をしているので、いつも同じ状況に涙涙で読ませてもらってます😭
施設に入る前、母は1人で頑張って家で生活していましたが、いつも昔の写真を出してきて机に飾っていました。初めは気づかず、写真があちこちに散乱しており、ここにも落ちてるてるじゃん?と写真がはいってる箱に返していたのですがある時その机に飾ってある?はさんである?写真がいつも変わっていることに気づきました。昔あげた手紙を出してきて読んでいたような形跡があったり。きっと懐かしくて夜な夜な1人でみていたんでしょうね。
施設に入ってバタバタしていましたが、ようやく落ち着いてきたのでこの前写真をアルバムに貼って施設に持っていきました。私にはわからない母の学生時代の白黒写真や、友人の写真、懐かしいものを沢山。施設で頑張ってる母が少しでも写真をみて色んな人を思い出してくれたらと思って1枚1枚厳選したかいもあって、よく写真をみているそうです。楽しい事ばかりではないと思いますが少しでも笑顔になれる瞬間があればと思ってます。会話もままならない事が多くなり、ほんとに切なくなることばかりですが꒰˘̩̩̩⌣˘̩̩̩๑꒱♡
今やれること、今しかできないことをやっておく事が少しでも自分のなぐさめになればと思ってます。私も会いにいく勇気がない時もあります。会いに行って後悔する日もあります😓でもきっと母には届いてると思ってます。かーたんも、娘さんも頑張りましょうね!
カータン
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自分だけじゃないんだなぁ と、共感しました😊
ありがとう❗
ただ、私も よくモノを積み上げちゃうんだよなぁ~😅😋🎼
温かくなってきたから、素敵な音楽を聴いたり 花でもめでようかと思った✨
カータン
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症状の段階によって、悩みどころは変わってきますよ。初期の段階が家族には一番応えるかもしれません。カータンさん、まだ会話ができるうちにお母さんとたくさん話しておいて下さいね。応援してます。
カータン
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私の母は精神疾患の為、認知症が進み私が30代の時には実の娘の事も大好きだった孫の事も分からなくなってしまいました。当時小学生だった娘もやはり施設にいた母に会いには行かなくなってしまいました。
あんなに自分を愛し育ててくれた母に忘れられるという事にかなりのショックを受けました。小さい頃からの様々な思い出が、今さらながら走馬灯のように駆け巡ります。目の前の母は、母であって母でないような感じです。
どうしようもないんだけど、親の介護はせつないですね。かーたん、お身体大切にして下さいね。
カータン
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優しい元気な、皆をリードする
お母さんが強く残ってますからね。
娘さんは、どう接していいのか
そして、昔の少し前のおばあちゃんが
頭にあり、会いにくいのでしょうね。
お母さん、触らないでよではなく
助かるわ、に変わったのは良かったですね。
娘さんの彼氏は、覚えてなかったのでしょうね。
そおです、年がいくとね同じ話は何度も
しますしね、聞いてきますしね
昔の事は、よく覚えてますからね。
仕方ないんですよね、自分も行く道なのだ
からとは思うけれどね、色々ありますね。
娘さんがいて、良かったですね。
こうして来てくれるし、部屋は片付くし
話も聞いてくれるし。
お母さん、その後どうされてるかと
思ってました。
カータンも、どうか休める時にゆっくり
ですよ。
ここに来てる読者の方も、わかるわと
今日の内容思ってますね。
私も同じですよ。
カータン
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カータン
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私は両親が共働きだったので小さな頃から 学校帰りは祖父母の家に帰っていました。
そんな祖母が認知症になったのは祖父が亡くなって間もなくのこと。私がお嫁に行って上の子が生まれて間もなくのことでした。
それから子育てもあり、病院も遠いこともあり、入院した祖母を見舞ったのは入院期間10年のうちほんの数回。
行かなきゃいけないのはわかっていました。
でも、行くたびにどんどん様子が変わっていき、見た目も変わり、そんな祖母を見るのが辛かった。
母からは薄情な子だねと言われました。
大好きな祖母。なんでも相談していて、誰よりも私のことをわかってくれていた。
でも、もう私のこともわからなくなってしまった。
10年かけて、私の知ってる祖母はもういないんだ。と思っていきました。
祖母は5年前に他界しました。
亡くなる少し前に病院に行けたのは良かったと思っています。
今でも祖母の作った料理が無性に食べたくなります。
カータン
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最後は私の名前も覚えてないみたいでしたが、私の娘を覚えてくれてたのが嬉しかったです。
カータン
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矍鑠としていた姿の残像がある時にはまだまだですよね💧
ペーちゃん、おばあちゃん子なら尚更のこと…孫との恋バナを全面的に楽しんでいらっしゃったんでしょうね。
ペーちゃんがおばあちゃんを愛おしく感じるようになった時には、今までとは違う質で、距離で、おばあちゃんを受け入れた証なのではないでしょうか😊
カータンの言うように、状況を楽しめるようになるにはペーちゃんもまだ若いのでしょうね😊
カータン
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私の祖母も認知症で「これは誰?」って。
説明しても理解できないらしく会話のキャッチボールができません…。イライラ通り越して切なくなるだけ。耳も遠いから余計
自然と足が遠のいてしまいます。
カータン
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認知症って癌にかかるのも辛いけど
認知症の方が私は周りも切ない辛い気がする。カーたん、モチベーションをどう保って介護をされてるんだろう。
実家の両親は私一人でみることになるから…今から考えると暗い気持ちになる。
カータン
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私はカータンさんより少し年上ですが今から6年前に突然母親を失ったのでカータンさんのお母さんのお話を読むととても切なくなります。
どうか後悔なくお母さんを大切にしてあげて下さい🙇
うちの母親も最期には大分いろいろわからなくなっていました。母も孫はとても可愛かったみたいです。切ないですね😭
カータン
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