しばらくブログをお休みして、ご心配をおかけしました。

実は、私の姉が闘病生活の末、11月24日に他界しました。昨日、家族で姉を見送りました。

姉の乳がんが見つかったのは、4年前のことでした。半年間の治療を経て、摘出手術を受け、経過観察3年間、何事もなく過ごし、「あと2年で逃げ切れるね」と姉と話していたところ、去年の秋に脳に転移していることがわかりました。

ここでは詳しいことは書きませんが、手術、治療を受け、普段と変わらない生活を送れるようになり、「なんて強運なんだ!」とふたりで喜んだのが今年の3月。

ところが、4月、再び、脳と脊髄にも転移が見つかり、その時、医師から『余命年内』という宣告を受けました。でも、その時、姉は怒っていました。
「こんなに元気なのに、余命年内ってひどくない? 大丈夫、私はがんを克服するよ」姉は強気だったし、前向きでした。

しかし、その後、次から次へ転移するがんに、治療を続けてきましたが、今年の夏にその治療も終わり、あとは奇跡が起こることを信じるのみとなりました。でも、実際、奇跡は起きたんじゃない?と思えたほど、父の葬儀も四十九日も、余命年内とは思えなかった。

明らかに悪くなったのは、ここ1、2ヶ月です。姉は苦しそうでした。それでも、姉は前向きでした。「来年のカレンダーと手帳を買ってきて」と頼まれたし、どんなに痛みが強くても「大丈夫!」と一度も私の前では弱音を吐きませんでした。そんな姉に私は言ったことがあります。「もっと我儘言ったり、甘えてよ!」と。弱音や心配事を吐かれたほうが、私も一緒に泣いたり、寄り添ってあげられると思ったからです。
すると、姉は「だって、子供の頃からずっと私は『お姉ちゃんだから』って、頑張ってきたんだもん、今さら、この歳になって甘えられない。できないんだよ」と。

今さらだけど、申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。

姉はいつもどこに行くにも、パンパンに膨らんだバッグを持っていて、足が悪くなって、杖の生活になっても、姉のバッグは重そうで、「もっと中身を減らせないの?」と私は何度も忠告しました。でも、その度に姉は「この中に入ってるのは全部必要なものばかりだから」と言いました。

今にして思えば、私はいつも姉のバッグに助けられていました。
病院で先生の話を姉と一緒に聞きながら、姉の病状の深刻さに私が堪えきれずに泣いていると、いつも姉はそのバッグからティッシュをさっと差し出してくれた。涙でマスクがぐしゃぐしゃになれば、またバッグから新しいマスクを取り出して渡してくれる。エコバッグも何度借りたかわかりません。

姉を失って気づきました。私にとって姉は、そのバッグそのものだったと。
私が困ったとき、いつでもさっと手を差し伸べてくれた。悩んだ時、相談に乗ってくれ、悲しい時、寄り添ってくれ、落ち込んだ時、励ましてくれ応援してくれた。15歳で親元を離れ、そこから姉と2人で生活していた私にとって、姉は親以上に頼れる存在で、1番の理解者でした。

これからこの喪失感をどう埋めていけばいいんだろう。今まで私は、大概の辛いこと、悲しいことでも、頭の中で漫画に変え、笑い話にできる天才か?と、自分のことをそんなふうに思ってきたけど、姉のことだけは絵さえ浮かばない。どれも涙で消されていく。でも、私がいつまでもメソメソしていたら、しっかり者の姉のこと、心配で安らかに眠ってなんかいられないはず。

父が先に逝って、待っていてくれて本当によかったと思う。今頃、姉は痛みから解放され、あちらの世界で父と大好きなビールを飲み交わしているはず、そう思うと救われる。かお、いつか私がいくまで待っててよ。でも、それはずっとずっと先の話ね。私は、かおが見れなかった風景をかおの分まで見て行かなくちゃね! 心配しないで、大丈夫! あなたの妹は、前を向いて、頑張るよ。

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姉の最期は、まるでドラマを見ているようなお別れだった。最期まで姉らしい完璧なお別れだった。