日本を発つ前、空港に向かう電車の中で
イクラさんからLINEがきた。

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そこに貼られていたリンク。

 
すぐに電車の中で読む。
22歳という若さでこの世を去った彼の人生は壮絶だった。

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私は興味を持つと
とことん調べたくなる性格だ。

電車の中、空港、韓国に着いてからも
記念館に行く当日まで彼のことを調べまくった。

そして、訪問の時を迎えた。
全泰壱記念館の外観。

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白い模様にも見える壁面は、彼が記した文字だ。

入口横にある全泰壱氏の銅像。

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さて、この記事で記念館を紹介する前に
先に書いておこうと思うのだけど


実は、記念館を訪れたその夜、

いろんな思いで胸がいっぱいになった私は
もっと彼について知りたいと思い、
記念館に展示されていた本も読んでみたいと思ったのだ。

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1978年に刊行された本、古本であるのだろうか?

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韓国から注文、
日本に帰ってくると、すでに本は届いて
すぐに読んだ。

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なので、その本から得た情報も踏まえながら、
全泰壱記念館を紹介していきたいと思う。

彼の生い立ち、育った環境は

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学校が大好きだった彼だが、
家が貧しいため、
12歳の時から家族のために働いてきた。

しかし、勉学の道が諦められなかった彼は
16歳の時、夜間学校に入学する。

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寸時も休む暇のなかった毎日でも、
全泰壱氏は当時を振り返り、
最も美しい追憶として抱いていたそうだ。

しかし、彼にとって充実した学校生活は
アボジ(父親)の命令で終わりを告げる。

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この言葉を聞いた全泰壱氏は、
「落雷がこの世を滅ぼすような気がした」と記している。

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16歳の私に、彼の言葉を聞かせてやりたい!
そして、彼のアボジ(父親)のように殴ってやりたい!

全泰壱氏は決心した!

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ソウルに出て苦学をするは
容易いことではないことくらい彼だってわかっている。

しかし、今、このチャンスを逃したら
学業の道が永遠に閉ざされてしまう
彼には迷っている余裕はなかった。

ところが、ソウルに出た後の彼の生活は
彼の想像を遥かに超える苦しいものであった。

生きていくのに精一杯、
もはや学問どころではなかった。

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毎日が食べること、寝床を見つけることで過ぎていく。

そんな折、彼は平和市場※のある仕立て屋の前で
※当時の平和市場:500以上の縫製工場が入ってた

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※シタとは、ミシン工や裁断師の仕事が効率よく進むように補助する役。アイロンがけ、糸くずとり、糸やボタン運び、そのほか、経営者やミシン工、裁断師の私用までしなければいけない辛い仕事。主に貧しい家庭で、中学に進学できない12歳から15歳までの少女たちが就く。

この求人広告を目にし、
彼は長い放浪生活を精算して
賃金労働者としての生活を歩むことを決意する。

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全泰壱記念館のパンフレットより

しかし、平和市場で彼が目にした「シタ」の劣悪な労働環境。
そのことが、その後の彼の人生を大きく変えることになる。

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入口にあった像と記念写真。
この時は、笑顔だった…笑ってる場合じゃないよ!

つづく



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台湾の二二八国家紀念館の記事書いた時くらい時間がかかってしまった。
 
まったく興味のない人には、つまらない記事かもしれませんが、一人の青年が労働環境を改善しようと命をかけて戦った、全泰壱氏の人生、よかったら読んでください。