長女に会いに韓国⑤心揺さぶられた『全泰壱記念館』(2)
からのつづき
全泰壱は安定した職に就くために
平和市場でシタとして働き始めた。
しかし、彼が平和市場で見たものは、
想像を絶する劣悪な労働環境だった。
部屋を水平に2つに間切をし、
2階にした部屋。

立って伸びをすることもできない
低い天井。

八坪ほどの作業場に、
裁断台とミシン14、5台。
下張り台がいっぱい入れられ、
血の気のない青白い顔をした従業員32人が
挟まれるようにして座っていた。
ミシンの騒音、布から出るホコリ、
油の匂い、汗の臭い…。
その中で仕事をしていると目から涙、
鼻を噛むと真っ黒な鼻水が出た。

13歳ほどの少女が
日光も当たらない密閉された狭い部屋で、
朝8時から夜11時まで働く。
トイレに行くことも憚られる。

休日は月2日だけ。
それだけ働いても、
賃金は交通費を差し引くと
昼食を抜く日もあるほどだった。
平和市場で5年以上働いたら、
ほんとどの子が気管支炎、眼病、
貧血、神経痛、胃腸炎になってしまう。
こんなシタの若い女の子たちを
彼はとても気の毒に思っていた。

全泰壱記念館パンフレットより
自分もお腹空かせているのに、
彼はシタの幼い女の子たちのために
たい焼きや餅パンを買ってあげていたという。
しかし、そんなことをしてあげても
何も状況は変わらなかった。
同じ人間でありながら、どうして貧しいものは、富める者の奴隷にならなければいけないのでしょうか?……なぜ、もっとも清純で汚れなくあどけない少女たちが、汚れた富める者の肥料にならなければいけないのでしょうか? これが社会の現実でしょうか?貧富の法則でしょうか?
全泰壱の作品草稿から
彼は思った。

努力して裁断師になった彼は
幼いシタたちを早く家に帰してやり、
代わりに自分が遅くまで彼女たちの分まで働くようにした。
しかし、そのことを企業主が知ると
彼は叱責される。

それでも、彼は止めなかった。
彼女たちを少しでも助けてあげたいと思うから。
しかし、そんな彼の優しい行為が
度々企業主に見つかってしまい、
ついに彼は解雇されてしまう。
その頃、
彼は「労働基準法」があることを知った。
こうなったら労働組合を作り、
労働者が団結して戦うしかない。
彼は勤労条件改善を目指す裁断師の組織
『バボの会』を結成する。
『バボ』とは、韓国語で
『阿呆』という意味である。
なぜ彼はこんな名前をつけたのか?

また彼は裁断師の組織を始めてから
先輩裁断師を訪ねて、協力を求めたが
彼らは一様にこう言った。


こうして、 彼は
満場一致で「バボの会」の会長に選出された。
その日から彼は暇さえあれば
「勤労基準法解説書」を読んだ。
高価な本で、彼の母が借金をして回り
買ってくれた本だった。
彼は何度も何度も読み返した。

おそらく彼が手にしているこの本だろう。
その本は、大学で法学を専攻する
大学生を対象に書かれたもので
小学校を2年ほど、中学を1年ほどしか
勉強したことがない彼にとって、
理解することは並大抵のことでなかった。
ところが、「バボの会」を発足したものの、
活動はうまくいかなかった。
会員の多くが退屈しのぎ、
就職口の情報を聞くために入ったため
新たな就職口が決まると会合に顔を出さなくなったからだ。
そこで彼は考えた。

彼はお金をはたいて、
労働実体調査のアンケートを
300枚印刷した。

アンケートのレプリカ。Google翻訳にかけてみた
余談だが、このアンケート用紙を
長女に見せたところ

若い子にとっては
わら半紙はおしゃれなんだ!
新たな発見! 余談終わり
アンケートは
企業者たちにバレないように
信用できるミシン工や裁断師に頼んだが、
それでも見つかってしまい、
捨てられたり、奪われたりして
彼の手元に戻ってきたのは30枚ほどだった。
さらに彼を挫折に追い込んだ出来事があった。

彼は失意と落胆の中にいた。
しかし、それでも彼は
「絶対に妥協しない」という思いで
この不条理の現実を克服できるすべて闘争方法を考えていた。
あらゆる方法を考えた。
労働監督官への陳情書、大統領への手紙…
でも、審査されずに終わった。

彼の事業計画書は、
大学ノート30ページにわたって書かれていたそうだ。
そして、彼が下した2つの選択肢。
◯模範企業設立計画を推進させるか
◯でなければ積極闘争を推し進めるか
そして、彼が下した結論は

1970年11月13日。
500人の労働者がプラカードを持って集まった。
警察隊が取り囲む中、

彼はそう叫ぶと、
炎に包まれていったのだった。
その後、病院に搬送された彼は
駆けつけたオモニ(母)に
声を振り絞り懇願した。

そして、夜
「お腹がすいた…」と元気のない声で言うと
静かに命を引き取った。
これが彼が最後に言った言葉である。
22年の彼の人生は、
常に飢えとの戦いだった。
追記:
彼の母親・李小仙女史は、息子が焼身自殺するまで平凡なオモニ(母)だった。

しかし、息子の死後、彼の遺志を汲んで清渓被服労働組合を設立した。しかし、労働組合は政権により絶えず弾圧され、李小仙女史の身柄を拘束し、労働組合に解散命令を下した。李小仙女史はこれに立ち向かい闘争し、1984年に労働組合を復活させ、1987年の労働者大闘争以降、労働組合の合法化を達成した。息子を亡くして以降、全泰壱氏のオモニは、労働者のオモニとしての人生を歩んだという。

□■□■□■□□■□■□■□■□
2回に渡りお付き合いくださり、ありがとうございました。
去年、YouTubeでバングラディシュの縫製工場の実情の動画を見たんです。小学生くらいの小さな子が、15時間ミシンを踏んで、賃金300円で働いていました。私たちが普段「安い」「安い」と喜んで買って着ている服は、こんな小さな手で作られていたと思うと、複雑な気持ちになりました。バングラディシュの服はもう買わないほうがいい? でも、みんなで不買運動をしたら、あの子たちは職を失って、ますます生活に困ることにならないか? 去年からそんなことをずっと考えながら過ごしていたので、イクラさんが全泰壱記念館に連れて行ってくれた時、勝手に運命だと思ってしまいました。今のバングラディシュにも全泰壱氏のような人が現れてほしい。(焼身自◯はしないで)
全泰壱は安定した職に就くために
平和市場でシタとして働き始めた。
しかし、彼が平和市場で見たものは、
想像を絶する劣悪な労働環境だった。
部屋を水平に2つに間切をし、
2階にした部屋。

立って伸びをすることもできない
低い天井。

八坪ほどの作業場に、
裁断台とミシン14、5台。
下張り台がいっぱい入れられ、
血の気のない青白い顔をした従業員32人が
挟まれるようにして座っていた。
ミシンの騒音、布から出るホコリ、
油の匂い、汗の臭い…。
その中で仕事をしていると目から涙、
鼻を噛むと真っ黒な鼻水が出た。

13歳ほどの少女が
日光も当たらない密閉された狭い部屋で、
朝8時から夜11時まで働く。
トイレに行くことも憚られる。

休日は月2日だけ。
それだけ働いても、
賃金は交通費を差し引くと
昼食を抜く日もあるほどだった。
平和市場で5年以上働いたら、
ほんとどの子が気管支炎、眼病、
貧血、神経痛、胃腸炎になってしまう。
こんなシタの若い女の子たちを
彼はとても気の毒に思っていた。

全泰壱記念館パンフレットより
自分もお腹空かせているのに、
彼はシタの幼い女の子たちのために
たい焼きや餅パンを買ってあげていたという。
しかし、そんなことをしてあげても
何も状況は変わらなかった。
同じ人間でありながら、どうして貧しいものは、富める者の奴隷にならなければいけないのでしょうか?……なぜ、もっとも清純で汚れなくあどけない少女たちが、汚れた富める者の肥料にならなければいけないのでしょうか? これが社会の現実でしょうか?貧富の法則でしょうか?
全泰壱の作品草稿から
彼は思った。

努力して裁断師になった彼は
幼いシタたちを早く家に帰してやり、
代わりに自分が遅くまで彼女たちの分まで働くようにした。
しかし、そのことを企業主が知ると
彼は叱責される。

それでも、彼は止めなかった。
彼女たちを少しでも助けてあげたいと思うから。
しかし、そんな彼の優しい行為が
度々企業主に見つかってしまい、
ついに彼は解雇されてしまう。
その頃、
彼は「労働基準法」があることを知った。
こうなったら労働組合を作り、
労働者が団結して戦うしかない。
彼は勤労条件改善を目指す裁断師の組織
『バボの会』を結成する。
『バボ』とは、韓国語で
『阿呆』という意味である。
なぜ彼はこんな名前をつけたのか?

また彼は裁断師の組織を始めてから
先輩裁断師を訪ねて、協力を求めたが
彼らは一様にこう言った。


こうして、 彼は
満場一致で「バボの会」の会長に選出された。
その日から彼は暇さえあれば
「勤労基準法解説書」を読んだ。
高価な本で、彼の母が借金をして回り
買ってくれた本だった。
彼は何度も何度も読み返した。

おそらく彼が手にしているこの本だろう。
その本は、大学で法学を専攻する
大学生を対象に書かれたもので
小学校を2年ほど、中学を1年ほどしか
勉強したことがない彼にとって、
理解することは並大抵のことでなかった。
ところが、「バボの会」を発足したものの、
活動はうまくいかなかった。
会員の多くが退屈しのぎ、
就職口の情報を聞くために入ったため
新たな就職口が決まると会合に顔を出さなくなったからだ。
そこで彼は考えた。

彼はお金をはたいて、
労働実体調査のアンケートを
300枚印刷した。

アンケートのレプリカ。Google翻訳にかけてみた
余談だが、このアンケート用紙を
長女に見せたところ

若い子にとっては
わら半紙はおしゃれなんだ!
新たな発見! 余談終わり
アンケートは
企業者たちにバレないように
信用できるミシン工や裁断師に頼んだが、
それでも見つかってしまい、
捨てられたり、奪われたりして
彼の手元に戻ってきたのは30枚ほどだった。
さらに彼を挫折に追い込んだ出来事があった。

彼は失意と落胆の中にいた。
しかし、それでも彼は
「絶対に妥協しない」という思いで
この不条理の現実を克服できるすべて闘争方法を考えていた。
あらゆる方法を考えた。
労働監督官への陳情書、大統領への手紙…
でも、審査されずに終わった。

彼の事業計画書は、
大学ノート30ページにわたって書かれていたそうだ。
そして、彼が下した2つの選択肢。
◯模範企業設立計画を推進させるか
◯でなければ積極闘争を推し進めるか
そして、彼が下した結論は

1970年11月13日。
500人の労働者がプラカードを持って集まった。
警察隊が取り囲む中、

彼はそう叫ぶと、
炎に包まれていったのだった。
その後、病院に搬送された彼は
駆けつけたオモニ(母)に
声を振り絞り懇願した。

そして、夜
「お腹がすいた…」と元気のない声で言うと
静かに命を引き取った。
これが彼が最後に言った言葉である。
22年の彼の人生は、
常に飢えとの戦いだった。
追記:
彼の母親・李小仙女史は、息子が焼身自殺するまで平凡なオモニ(母)だった。

しかし、息子の死後、彼の遺志を汲んで清渓被服労働組合を設立した。しかし、労働組合は政権により絶えず弾圧され、李小仙女史の身柄を拘束し、労働組合に解散命令を下した。李小仙女史はこれに立ち向かい闘争し、1984年に労働組合を復活させ、1987年の労働者大闘争以降、労働組合の合法化を達成した。息子を亡くして以降、全泰壱氏のオモニは、労働者のオモニとしての人生を歩んだという。

□■□■□■□□■□■□■□■□
2回に渡りお付き合いくださり、ありがとうございました。
去年、YouTubeでバングラディシュの縫製工場の実情の動画を見たんです。小学生くらいの小さな子が、15時間ミシンを踏んで、賃金300円で働いていました。私たちが普段「安い」「安い」と喜んで買って着ている服は、こんな小さな手で作られていたと思うと、複雑な気持ちになりました。バングラディシュの服はもう買わないほうがいい? でも、みんなで不買運動をしたら、あの子たちは職を失って、ますます生活に困ることにならないか? 去年からそんなことをずっと考えながら過ごしていたので、イクラさんが全泰壱記念館に連れて行ってくれた時、勝手に運命だと思ってしまいました。今のバングラディシュにも全泰壱氏のような人が現れてほしい。(焼身自◯はしないで)
コメント
コメント一覧 (42)
かーたんさんの仰る通り、現在も残る問題です。
その原因は安い物を買い求める私達消費者にあると思います。
高ければ良いという物でも無いけれど、安さの理由を考えて、賢い消費者にならなければと改めて思いました。
現在にも通じる、この出来事をシェアしてくださって有難うございました。
カータン
が
しました
先進国が大量消費する背後には色んな犠牲があること、考えなくてはならないですよね…
仕事で取引する業者はフェアトレードだったり、サステナビリティに取り組んでる会社にしていますが、私たち日本人一人一人がもっとそこを意識して生活していくには『市場より安い』ということの背景に何があるかをもっと広めていかなくては行けないと思いました。
カータン
が
しました
カータン
が
しました
夫は、ほしいなら買えばいい と言いました。
労働環境が劣悪で、そこでしか働けないような人達を雇って安い賃金で長時間働かせてるそうだから買うのは良くない気がするんだと私が言うと、皆が持っているスマホだって全ての部品がクリーンな労働環境で作られているかといったら絶対にそうじゃない場所もある。でもスマホが必要だから持つでしょ?
そういう環境でしか働けない人達なら、そこがなくなったら働き口がなくなるって事でもあるよ。
なにが正しい、と答えを出すのは簡単じゃないから、それならあなたが必要なら買えばいいし、必要じゃないなら買わなければいい、と。
つくづく、難しい問題だと思います。
わたしは結局買わなかったけど、sheinに限らずそういう事って世の中に溢れてるんですよね、きっと。
カータン
が
しました
彼の優しさと強さに涙が止まりません。
歳を重ねるにつれて、自分が社会に対してできることは何だろうと考えますが、イマイチ役に立てている気がしなくて…心奮い立たせて頂きました。
カータン
が
しました
カータンさんの体験記事は詳しくて素晴らしい!
ありがとうございます!
カータン
が
しました
全泰壱さんの志はカータンの漫画のほうが
わかりやすく心が震えました
カータン
が
しました
カータン
が
しました
ファッション業界の闇に焦点を当てたドキュメンタリー映画「ザ・トゥルー・コスト ~ファストファッション 真の代償~」もぜひご覧いただきたいです。
カータン
が
しました
ベトナム戦争時のお坊さんの記事を読んだことがあります
60年経っても彼の行為は仏教徒の精神的支えになっていると書いてありました
記念館が立つくらいですから全氏も人の心に強く残っているのは間違いないけれど
そうは言っても…
もっと別の抗議の方法は無いもんか、といつも考えさせられます
カータン
が
しました
バングラデシュの映像も見ましたが、では、その前のバングラデシュはどうだった?もっともっとひどい環境で仕事もなく食べるものにも困るほどでした。バングラデシュの平均寿命は確実に上がっています。
まだまだ改善の余地はありますが、今の日本と比べて可哀想、ファストファッション酷い、、というのとは違うかな?っと思います。
でも、こういう歴史・現状を学ぶのは大切ですよね。今の私たちの生活は両親、祖父母、先祖達のお陰なのですよね。
カータン
が
しました
いつもは笑うブログも今日は真顔で拝読しました。
カータン
が
しました
偽善も集まれば大きな善になる
以前かあたんのブログで台湾パイナップルを知り毎年買っています。
こういった発展途上国を支援する企業やNPOフェアトレードをブログで紹介してくださったり、小銭募金したよとブログにあげたりするだけでもきっと大きな力になると思いますよ!
カータン
が
しました
1000円のTシャツが5000円になっても買えるように10万の手取りの人が50万になったらいいのに(これは極端な話ですが)
中抜きや身内贔屓がない政府だったらもっと誠実に国民に向き合えてくれたのかな...でもそんな政治家を選んだのは国民なんだよな...と我の愚かさにガッカリしたりもします。
一人では変えられないと無力さを感じますが、その一人が政治家を選び、国のムード作りに寄与しているのだと思うと行動を変えることは決して無駄ではないのかもしれないとも少しだけ希望を見出す時もあります。
カータン
が
しました
最後が衝撃的過ぎて口をあんぐり開けて悲しみました。年代もつい最近のことで驚きました。そんなつい最近の歴史だなんて、、、こんな過酷な状況下で働かされ餌食にされ、人権が認められていない世界がもう二度と起きませんように
政治は皆んなを救うためにある
それを政治家は肝に銘じて欲しい、平和で安全で平等で幸せになれる世の中になりますように
カータン
が
しました
カータン
が
しました
最愛の息子の願い…
なかなかできることではないですし
命をかけた思いは決して無駄ではなかった
(もちろん生きていて欲しかったですが…)
人が人として生きられるようにと
改めて思いました。
カータン
が
しました
このような話をされるのは
子供達の未来の為にも
非常にありがたいです。
子供達と話し合ってみたいと思います。
カータン
が
しました
映画ではトゥルーコストがありますね。
プチプラはもちろんですが、世界的なハイブランドも同じ闇をもっています。
価格だけでなく、そのブランドの生産方法をチェックすることがよいのかも。
例えば自社工場で作っている小さなブランドが国内外あります。
成長期や流行を追いたがる年代の子どもはお手軽価格も必要だろうけれど、ある程度大人な世代は背景に想いを寄せて選ぶこと、プチプラでも『安いから』を理由に買わず長く大切に使うという心がけだけでも変わってくると思います。
カータン
が
しました
それでも最後まで何の迷いもなく、親に遺志を継いで欲しいと頼む強さ、それを受け止め実行する母、頭が下がります。
自分もこの事をちゃんと考えたいと思います。
カータン、教えてくれてありがとうございました。
カータン
が
しました
数年前に知人に勧められまだ観ていませんが、
探してみようとおもいます。
カータン
が
しました
コスパの良いには必ず理由があります。不当な労働からできている物は買わない選択を私はしたいです。世界は不平等なんだなと思わされます。日本にいても日々不満はありますが、暖かい場所と食べる物があるだけでもとても恵まれているんですよね🥲
貧しい人から搾取する社会は無くなって欲しいです🥺
カータン
が
しました
カータン
が
しました
それでも、今はSDGsとかESGとかが浸透してきている分、少しずつ良くなっているのでしょうけど。
カータン
が
しました
個人チャンネルですがものすごく動画のクオリティが高いのでよく見ています。
世界各国をまわって取材してる動画がたくさんあるので知らない方はぜひ!
子供が過酷な労働を強いられているのは、本当に大きな問題ですね。
カータン
が
しました
過ぎる労働は考える時間も力も余裕も奪っていきます。
こういった話も知ることができて、これだからカータンのブログはやめられないです。
カータン
が
しました
命と引き換えにしなくていいと思います。
小さな公立の学校だったので2010年頃もわら半紙でした笑 わら半紙懐かしいです。
カータン
が
しました
最近、着物にはまってしまい、たくさんの着物インスタグラマーをフォローし始めました。
中には、自分の子供と同じくらいの小さな子供が過酷な労働環境で安い賃金で縫製をしていると知り、安い洋服を買っては捨てることが嫌になり(かと言って服を着ない訳にはいかず)着物で生活をすることにしたという人もいらっしゃいました。
まずは自分にできることを見つけて、少しずつ良い社会になるように。
きっかけになるようなブログを書いてくださりありがとうございます。
カータン
が
しました
韓国ひどい...と思ったもののイヤ!日本もひどいじゃない!と昨今のフジテレビ問題を思い浮かべました。
カータン
が
しました
自分なら裁断師になった時点で人のことを忘れて満足してしまうだろうな…いやそもそも食事も取れないような貧乏な生活の中で裁断師になれるまで努力するような根性や気力があるだろうか…などと考えてしまいました。
自分は楽な生活ではないと思っていましたが、恵まれているのだと思いました。
自分のことだけではなく周りにも目を向けなければ、ですね。
カータン
が
しました
22歳😭若すぎる。
そしてバングラデシュの件もテレビで見たばかりでした。。革命が起きてて結構な人数の若者が亡くなっていました。それでもまだまだ働く環境はなかなか変わらないとのニュースでしたが大統領は変わったようですよ、働く環境もよくなるといいですね🥺
カータン
が
しました
全泰壱氏の事は『完全自さつマニュアル』で初めて名前を知りましたが、もっと詳しく知る事が出来て大変嬉しく思います。
カータン
が
しました
「人は一代、名は末代」の典型的な事例です✨
根性論とか言って馬鹿にされる時代ですが〜
強い意志と度胸がなければ出来ない行動です❢
口先だけの今の世の中〜
原点に帰って見習わなければいけませんね❢
わら半紙にメモしときます(笑)💦😙
カータン
が
しました
カータン
が
しました
カータン
が
しました
僅か17歳で志を持って国の未来の為に命を落とした少年とその遺志を継ぐ母親…昔の韓国と同じ事が今も起こっているのですね。
彼等の命がより良い未来の礎となることを願っています。
カータン
が
しました
重いものほど心の奥に迫ってくる
他者を思って命を投げうてる人間はそういない
どれだけの覚悟を持って
労働者の思いと人生背負って
権利を声高に叫び身に火を放ったのか
もし、自分の息子がこのような抗議をしたら
多分、誇りに思うよりもまず絶望する
息子の魂の叫びに応えた母は
本当に強くすごい人間だと思う
カータン
が
しました
韓国語私も詳しくないのですが…間違いだったらすみません。
カータン
が
しました