からのつづき

小学5年生のとき、
父の仕事の関係で台湾に住み始めて、
不思議に思ったことがあった。


日本語を流暢に話すおじさん、おばさん。

中国語を話す人たち。


そして――

中国語とはまったく違って聞こえる
言葉を話す人たち。


父に聞くと、教えてくれた。

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そのとき初めて、
中国語とは別に
「台湾語」という言葉があることを知った。


同じマンションに住んでいた
台湾人の郭さんのおばさんは、

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子どもの私には、
ひとりの人がいくつもの言葉を
自在に使い分けることが
とても不思議だった。


そういえば、最近は
台湾に来ても、あまり台湾語を
耳にしなくなったような
……。


さて、そんな「台湾語」の研究に
生涯を捧げた人の記念館が台南にある。


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王育徳(おう・いくとく)さん。


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1924年、台南生まれ。

旧制台北高校を卒業後、
東京帝国大学へ進学した。

しかし戦況の悪化で台湾へ戻り、
そこで終戦を迎える。


戦後は台南で教師をしていたが、
1947年、台湾で
「二・二八事件」が起こる。

以前、二・二八事件について書いた記事


検察官だった兄・王育霖さんも
この事件のさなかに連行され、
そのまま帰らぬ人となった。

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育徳さん自身も政府を批判する文芸活動などから
身の危険が迫り、


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1949年、
香港を経由して日本へ亡命した。

国民党政権はいずれ力を失うだろう。

日本にいるのは1年ほど――

そんなつもりだったという。

そして東京大学に復学。

そこで育徳さんが取り組んだのが、
故郷の言葉「台湾語」の研究だった。


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そんな思いで研究を続け、

1969年、
台湾語の研究で
東京大学から文学博士の学位を取得した。


一方で育徳さんは、
日本にいながら
台湾の自由を求める活動も続けた。

1960年には「台湾青年社」を設立。


機関誌『台湾青年』を発行し、
台湾独立運動を展開した。


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館内で作った『台湾青年』の表紙


さらに晩年には、
台湾人元日本兵への
戦後補償を求める運動にも力を注いだ。


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戦争中、
日本兵として戦った台湾の人たち。


ところが戦後、
日本国籍を失ったことで
日本人の元兵士と同じ補償を
受けることができなかった。


育徳さんは
その不公平を訴え続けた。


・台湾語の研究。

・台湾の自由を求める活動。

・台湾人元日本兵への補償運動。


日本で暮らしながら、
その人生はずっと台湾とともにあった。


しかし――

育徳さん自身が
故郷の台湾に帰ることは
一度も叶わなかった。


1985年、
東京で心筋梗塞のため亡くなった。

61歳だった。


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本当にそう思った。


そして、ここで
さらに胸にくることがある。


台湾で38年間続いた戒厳令が
解除されたのは1987年。


育徳さんが亡くなった
わずか2年後だ。


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記念館には、

東京の自宅にあった書斎が
再現されている。

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机も、本棚も、資料も――
日本から台湾へ運ばれてきたものだという。


生前は帰ることのできなかった故郷に、

今はこうして
育徳さんの書斎が帰ってきている。


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生涯、故郷を思い続けた人の言葉が、
なんだか胸に残った。


館内の展示には
すべて日本語の解説も書かれている。

一瞬、
日本の記念館を訪れているような
不思議な感覚にもなる。


台南を訪れる機会があったら、
ぜひ立ち寄ってほしい場所。



   

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館内に、昔の電話が置いてあった。受話器を取ると、そこから台湾語が流れてくる。何を話しているのか、さっぱりわからない。でも、その響きがなんだかとても懐かしかった。市場で、タクシーで、街のあちこちで耳にしていた音。意味なんてわからなかったのに、耳のどこかにちゃんと残っていたんだな。受話器を耳に当てながら、一瞬、小学生の頃に戻ったような気がした。